スワンボートを漕ぎながら

元文学部生のぼやきです

「綺麗で高尚な芸術」という窮屈な枠 / 会田誠の作品撤去問題

毎度お騒がせの現代芸術家・会田誠さんが、今度は発表した作品の撤去要請を受けたとのことで。

問題となったのは、東京都現代美術館にて発表された「檄」という作品。

白い布に毛筆で「文部科学省に物申す」と書き、「未来の資源に予算を回せ」「教科書が独習者の邪魔をしている」などと訴える作品です。面白そうだったので観に行きたかったのですが、私は時間がなくて諦めました。

この作品に関して、会田さん本人は「政治的な作品ではない」と言及しています。
以下に作品の撤去要請を受けた、会田さんのコメントリンクを張っておきますね。

「子供展に相応しい」作品って?

本作品に寄せられたクレーム「内容が子供展に相応しくない」。漫画やアニメ、テレビ番組に対しても向けられるクレームですよね。私はこのクレームに対して「じゃあ子供展に相応しい作品ってなに?」と、純粋に疑問を感じました。子供の教育上「良い」作品ってなんでしょうか。

ルネサンス絵画? 子供の創造性を向上させる作品? 純粋無垢で清く正しい作品?

そうだとするなら、多くの現代芸術作品は子供展に相応しくない、ということになり、非常に退屈で限定的な展覧会になってしまいます。

クレームを寄せた友の会会員の方は、おそらく子供に「非道」に走って欲しくないと願っているのでしょう。では非道に対して、大人が決めた「道理」だけを教えていけばよいのか? それこそ子供の自発性を奪い、従順で機械的な子供を育成してしまいます。

そもそも、この「道理」は絶対的で普遍的なものなんかではなくて、それらはある意味、傾倒した理想です。これを絶対視し盲目的になってしまうことこそ、恐れるべき未来だと言えます。

会田さんも作品の撤去要請に対するコメントの中でこう述べています。

 「ものごとを疑う精神」というのは、人間の知性にとって最も大切なものと僕は考えます。それは20歳で成人してから、突然行使する権利が認められるような類いのものではなく、それこそ「物ごころついた時から」着々と育んでいくべきものと考えます。いわゆる「思春期の自我の目覚め」で突然それに目覚める、その「遅さ」ゆえの「爆発」こそが、できれば避けるべき事態だ——というのが僕の考えです。

 「おとな」は展示作品と向かい合っているのか?

今回の展覧会のタイトルは『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?』ですが、私はこのタイトルを聞いて「グリム童話」を思い出したんですね。

初版グリム童話集―ベスト・セレクション

初版グリム童話集―ベスト・セレクション

 

 グリム童話の正式タイトルは「子供たちと家庭の童話」です。子供だけではなく、親も一緒になって童話が提示する意味を考えて欲しい。グリム兄弟はそのような願いを込めて、グリム童話を編纂したと言われています。

 初版の童話集の中にはグロテスクで非道徳的な描写も登場していました。一時期日本でも「本当は恐いグリム童話」と言った話題が流行りましたね。

ですが、私たちの多くはグリム童話に対して「綺麗」「メルヘンチック」「純粋無垢」など清く正しいイメージを抱いています。これはどうしてか?

それは今回の『檄』問題と同様、「子供に相応しくない」というクレームが寄せられ、グリム兄弟は改筆せざるを得なくなり、私たちは漂白された「綺麗」なグリム童話に親しんでいるからです。また、日本でもグリム童話の中からいくつかの物語を選定して学校教育に用いたりしたのですが、そのときに基準となったのがキリスト教的道徳観なんですね。これは戦後から現在まで引き継がれている道徳観であり、学校教育においても「道徳」として残っています。

教育関係者や政府からの要請、それは言ってしまえば「子供に見られたら不味いから隠せ」ってことです。この「見られたら不味い」ものは何か? 

それは「自国や大人の尊厳を脅かすもの」であり、「醜悪なもの」です。

★★★

子供には、「醜悪」なものを排除した「美麗」なものを与えたい。

多くの教育者や政府が抱く、このような差別的な願望に対して違和感を持つ人は、果たしてどれくらいいるのでしょうか? 当然のこととして、見過ごしてはいませんか?

教科書には自国の都合の良いことばかりを書き、教育上良くない番組や作品に対してはすぐ批判し、汚物や汚臭には蓋をして、エログロを大人の特権としている(変な方向に向かってるので軌道修正します)。

子供を大人と区別し、社会の一員だと見なしていない。子供だって懐疑的な視点は持っているし、それこそ精神的な成長に必要なものです。それを大人が抑圧し、懐疑的な視点を向けられないよう隠蔽してしまうのは非常におかしい。自国の政府、周囲の大人に対して批判的な視点を向ける子供を恐れて、芸術を「綺麗で高尚」という窮屈な枠の中に押し込めて、果たしてそれが「正しい」教育と言えるのでしょうか?

そうではなく、子供自身が「何が正しいか」を考えるための教育をするのが重要なのではないのだろうか、私はそう考えます。

(この問題を「文部科学省の大学改革」とか「放送法」と関連させて考えたかったのですが、長くなりそうなのでまた日を改めて考えたいと思います。)

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