スワンボートを漕ぎながら

元文学部生のぼやきです

「退屈」と「惰性」はあくまで主観的なもの という話

今回も、最近通い詰めているマクドナルドでの話です。matlune.hatenablog.com

17時から19時までの間、ほぼ毎日、マクドナルドで談笑をしている70歳前後の男女4人がいます。私は他人の会話を聴くのが大好きなので、もちろん彼らの近くの席に座って聴き耳を立てているのですが、彼らの会話がけっこう面白いです。

「高校生の孫が試験勉強もせずにゲームをしている」と一人の女性が話し出し、他の同席者が「最近の若者は〜」と語り出す。そして、話題はゆとり教育問題に渡り、さらには電子書籍の使いにくさ、本屋の静寂が逆に不快といった所まで飛躍する。

私は「着地点はどこだ!?」とワクワクしながら、彼らの会話を聴いています。
でも毎回、「昔は良かった」という懐古感で一致し、そこで会話が終わるんですね。
私は彼らのオーディエンスでもなければ、知人でもありません。なので、彼らの会話に対して「それで終わり?」と批判するのは馬鹿げているし、そもそも談笑なのだから、会話の内容など他愛もない話で当然です。

ただ私は、彼らが惰性的に会話を続けていて飽きないのか、楽しいのかと、疑問に思ってしまうんですね。
毎日のように似た話をして、毎日のように郷愁感を感じる。それで果たして、彼らの退屈は誤魔化されているのだろうか?
たまには別の(昔は良かった以外の)着地をするような、刺激的な会話を求めないのだろうか?

★★★

惰性的な人間関係、それを繋いでいるものは何なのでしょうか。
外から見れば惰性的で退屈そうな関係だけれど、彼らにとっては楽しい関係なのか。もしくは、その関係を絶った事で、他の大きな関係も崩壊してしまうような、緊迫感を伴ったジェンガ的な何かなのか。

話が変わりますが、私は以前、付き合っていた人と一ヶ月で別れたことがあります。
別れた理由は、彼との関係に「退屈」を予感したからです。付き合った当初はまだ会話が楽しく、一緒にいたいとさえ思っていました。でも一ヶ月もすると、そろそろ飽きが来始めた。そして、今後の将来を想像した時に、そこにはあまりに退屈そうにしている私がいたんですね。

私は「退屈」を予感したから「惰性」的な関係を絶った。
いや、そもそも「今」が退屈だったから、その関係を「惰性」的なものだと思ってしまった。

退屈の問題については以前の記事で考えましたが、「退屈」とはあくまで主観的な感情です。matlune.hatenablog.com

そう考えるなら、マクドナルドで談笑を続ける彼らにとって、談笑は退屈なものなんかではなく、また惰性的なものでもないのでしょう。しかし、傍から見て彼らの関係が「惰性的なもの」に思えてしまうのはどうしてなのか?

いくら外から考えても解決しないかもしれませんが、今後もう少しだけ深く考えてみたいと思っています。

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